Sweet glow 3
リョーマはあくびをかみ殺し、空を仰いだ。
始業1時間前の朝の練習はテニス部の規則だ。陽はまだ低い位置にある。
朝起きるのは得意ではない。
でも、先日行われたランキング戦に勝ち抜き、リョーマはレギュラーになったばかりだった。
レギュラーになったからには朝の練習もそうそうサボるわけにはいかない。
それに、眠気をこらえて出る理由は他にもあった。
コートの片隅で柔軟をしていると、先輩レギュラーの一団が入ってくる。
“いた!”
その人の姿を視界に捉え、リョーマはちょっと笑う。
「おはようっす。」
自分の前を横切る時に、さりげなく朝の挨拶の言葉をかけるとその人もゆっくりと笑顔と共に挨拶を返してくれる。
「おはよう。」
この瞬間、不思議でどこか可笑しい気持ちになる。
女の子だと思っていた人が男でしかも同じテニス部の先輩だなんて。
いつか会いたいと思っていた人がいつも会える、そんな状況になるなんて。
不二 周助
彼の名前を聞いた時、まるで何かのまじないのように何度も胸の内でその名を繰り返した。
負けなしの手塚、と異名を取る部長に続く部内ナンバー2ではあるが、そのテクニックは手塚をも凌ぐとさえ言われ、およそ全国にランキングしているテニス部で彼の名を知らない者はいないらしい。
それを聞いた時は嬉しかった。やはり自分の目に狂いはなかったと。
2年前見たプレーにその片鱗は充分あった。あの頃から頭角を現していたのだろう。
・・・そう、2年前。
リョーマはちょっとため息をつく。
まだ直接あの人に聞いていない。
まだ部員になって日にちが浅く、あの人と話をする機会に恵まれない事もあったが、どこかでその話をする事を踏み止まる自分があった。
そんな昔の話を覚えている自分が何だか恥ずかしくて、つい言い出せないまま、目はあの人を追っていて。
ふっと目が合う瞬間、あの人はいつも不思議そうな顔をする。
その度、ほんの少し呼吸が苦しくなる。
きっと覚えてはいないんだろう。そう思うたびに。
あの人の微笑みはあの時と少しも変わってはいないのに。
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ルーキー、越前リョーマが2年生相手に練習試合を始めると、皆の視線がその試合に集中した。
伸びやかで力強いボレー。
速さと鋭さを兼ね備えた低いショット。
そして体重をも感じさせない軽やかなスプリット・ステップ。
おおよそテニスをした事がある人間であるなら誰もが心奪われるだろうそのフォームとプレー。
不二もその例外ではなく、そのプレイにしばし見入る。
「何考えてた?」
その声に視線を巡らすと、いつの間にか傍らに手塚が立っていた。
「・・・キミと同じ事。」
自分に話し掛けていながら、その視線ははるか彼方の後輩のプレーに注いでいる手塚に不二はちょっと笑う。
「あのコ、スゴイね。ちょっと信じられないくらい。」
彼のプレイを初めて見た時の衝撃は未だにはっきりと残っている。
その力に満ちたしなやかな美しさ。まるで彼そのもののような試合を不二は脳裏に描き出す。
「・・・お前が他人のことをそう言うのを初めて聞いた。」
「そう?」
「お前は辛辣だからな。」
「ひどいなぁ・・・」
手塚の遠慮のない言葉に不二は苦笑する。
「辛辣なのはどっちなんだか・・・」
手塚はめったに人を自分の心に踏み込ませない。自分もそうではあるが、彼の場合はもっと徹底していて、いつも一段高いところから全てを見下ろしているような発言をする。
そんな彼に辛辣と言われ、不二は可笑しいような気持ちになる。
「ところで不二」
「何?」
「お前あいつを・・・越前を知っているのか?」
菊丸に言われた事を手塚にまで指摘され、不二はちょっと目を見開く。
「何でそう思うの?」
「越前はよくお前を見ている。・・・気がつかなかったか?」
「・・・ああ、それは・・・僕が彼を見てるからじゃない?」
ちょっと口ごもりながら、でも、さり気ない風を装って不二が言う。
「あんなコちょっといないからね。」
少し早口にそう付け加え、
「・・・でもね、それは英二にも言われた。」
そして少し笑って先日の話に結びつける。
「彼いわく、男子テニス部に女子が混ざっていると思われてるってさ。」
「・・・笑えん冗談だな。」
にこりともせずに手塚が言う。
「お前が女だなどと考えるだに恐ろしい。」
「・・・それは冗談で言ってるの、手塚??」
「そう思うか?」
「・・・さすが手塚だね、英二の数倍、カンに触るよ。」
しかし、不二の毒も手塚にはあまり効かない。黙って肩をすくめただけの手塚に不二は苦笑いするよりない。
またひとつルーキーのスマッシュが決まった。
無限の可能性を感じさせる力強い伸びやかなショットに不二は目を細める。
越前 リョーマ
最近聞いたばかりの彼の名を胸の内でそっと呟く。
いまや伝説とさえ言われているテニスプレイヤー、越前南次郎の息子にして全米ジュニア選手権の4連覇を成し遂げている実績の持ち主。
やっぱり、ただのコじゃなかった。
彼の事を知った時、そう思い、嬉しかった。自分の目は確かだったのだ、と。
でも、それはそれだけの事だ。
過去の事といっても何一つあった訳ではないのだし、と不二は自嘲気味に笑う。
時折、視線が合うたびに、不思議そうにこちらを見る彼に少し胸が痛む。
まさか2年前の事など覚えてはいないだろう。
一瞬、自分の前を通り抜けていった光の残像に心奪われたまま時が止まっているのは自分だけ。
彼の瞳の色、強さはあの時のままなのに。
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ルーキー達の試合も中盤に差し掛かったようだ。
見惚れていた面々もそれぞれおのおのの練習に戻っていく。
「さて、とオレ達も練習だ。」
「先にコートに入ってて。タオルとって来る。」
「不二」
「何?」
「あいつが・・・越前がお前の探していた奴じゃないのか?」
その言葉に思わずぎくりとして振り返ると、一瞬、手塚と目が合った。
鋭い何もかも見透かすようなその視線に息が詰まるような思いがする。
しかしそれは一瞬の事、すぐに背を向け、手塚はコートに歩み去っていった。
“まいったな”
クラブハウスの扉を閉めたと同時に不二の唇からは小さなため息が漏れた。
“やっぱり、気付かれてた、か”
あの昔話を彼がまだ覚えていたなんて・・・
不二は傍らのベンチに腰を下ろし、乾いた笑みを浮かべた。
“・・・ばかだなぁ”
ただ、自分は夢の続きに酔っているだけ。じきにそれは醒める。醒めなきゃならない・・・
軽く頬を両手で叩いて気合を入れ、立ち上がった足元に軽い音を立てて何かが落ちる。
・・・タオルだ。
それは鮮やかな青い色をしたタオル。その色を何処かで見たような気がして不二は小首を傾げ、次の瞬間はっとした。
と、不意にクラブハウスの扉が音を立てて開き、誰かが入ってきた。
誰もいないと思って入ってきたのだろう、入室者は自分という先客がいるのを知って少し驚いたように足を止める。
入ってきたのは彼・・・越前リョーマだった。
一瞬ぎくりとしながらも不二はその理由に気付いていた。
「これ・・・キミのでしょ?」
思っていたよりも滑らかに言葉は出てきた。
拾って手にしていたタオルをかかげると戸惑ったように彼は不二を見る。
「確かリストバンドと同じ色だったと思ったから・・・違った?」
何故わかった?と言う顔をする彼に、不二はちょっと笑うと彼の左手を指差す。
そこにはタオルと同色のリストバンドが付けられていた。
ああ、と納得したように彼は頷く。
「キレイな色だね。僕、この色好きなんだ。」
「・・・オレもっす。」
ちょっとの間を置いて彼が不二の言葉を拾い上げる。
「だからここのレギュラージャージ気に入ってるっす。」
「そう?じゃあ、死守しないといけないね。ここの部員達は強いよ。」
「オレよりも・・・っすか?」
後輩の強気の発言にちょっと目を見開き、不二は思わずくすっと笑う。
「少なくとも僕は負けないよ。」
・・・彼とこうして話すのは初めてだ。ふと不二はその事に気付く。
思っていたより自然に話しかけられた事にほっとし、そして思う。
もう少しこうしていたい。こうしていれば彼を盗み見るような真似はしなくていいから。
堂々と彼を見ていられるから。
「不二・・・先輩。」
ふと彼がためらいがちに自分の名前を呼んだ。
初めてこの子に名前を呼ばれたな、そんな事を考え、不二は小首を傾げ、笑いかける。
「何?越前?」
彼はちょっと目を見開き、不二を見ていたが、何事かを言おうと口を開きかけた。
と、またもクラブハウスの扉が開いた。
「いつまでかかってるんだ、不二?」
「・・・手塚。」
いつまでも来ない不二に焦れてクラブハウスを覗きに来たらしい。いささか不機嫌そうな声を上げ、クラブハウスへと入ってくる。
「誰かいるのか?」
不二ひとりだと思っていたらしい手塚はもうひとりの在室者に気付くとふっと眉をひそめた。
「朝練の時間は短い。もっと時間を大切にしろ。」
「そうだね、ごめん。」
不二は素早く手塚に歩み寄り、さり気なく彼の視線の前に立つ。
「不二、後で話がある。」
「うん、いいけど。」
ちらりと不二の背後を見たが、それ以上何も言わずに前に立って外へと出て行く手塚にちょっとほっとしながら不二はその後へと続く。
背後に後ろ髪を引かれるような思いをしながら・・・
2人が立ち去った後リョーマはちょっとため息をついた。
さり気なく部長と自分の間に立ってくれたあの人の行動に、あの人が自分をかばってくれたのだと気付いていた。
・・・何となく悔しかった。自分が子供に思われているような気がして。
テニスの技術こそそれこそあの人にも負ける気はしないが、あの人にとっては自分はそれこそ部に入りたての年下の後輩に過ぎないのだろう。
何故か胸が痛んだ。
・・・自分はあの人を覚えているのに、あの人は自分を覚えていないとしたら?
クラブハウスの外で部員達のさざめきが聞こえる。
「部長と不二先輩の試合だ!」
聞こえてきた声に慌てて外へ出て、人の集まるAコートへと視線を向ける。
そこは全く別の空間のように緊張に満ちていた。
軌跡すら見えてしまいそうなほど高速で鋭い手塚のサーブ。
その長身を生かした距離のあるショットとそのスピードにリョーマは目を見張る。
打球も充分に重く、コースも縦横無尽で、並みの者ではその球についていくことも出来ないだろう。
しかも、左利きときている。
まさにこの学園のテニス部の部長に相応しいオールラウンド・プレイヤーといったところか。
しかし、そんな手塚を相手に不二は一歩も退いてはいなかった。
ラインぎりぎりで決まる、いわば“決め球”をさして苦もなく拾い、確実に返していく。
“・・・”
そんなラリーを見ながらふとリョーマは気付く。
少しずつ返す球の速度が増している。
手塚が思うコースで球は操られている。しかし不二はあくまでもその流れに逆らわず、しなやかに速度だけを上乗せして返しているのだ。
不意に不二がその球を手塚のコースから切り離し、右側のラインぎりぎりに決めた。手塚はそれを拾うが、速度の乗った鋭いボレーは左利きの彼のロブを誘う結果となる。
その一瞬の球の動きを素早く捉えた不二が、構えていたラケットを鋭角に振り切った。
と、球が変則的な動きに変わり、次の瞬間、跳ねるような速度で手塚の脇を素早く抜けていった。
「すげぇ、あの部長の脇を抜いた!」
「あの球の回転と速度、見たか?」
「不二先輩のカウンター・ショットは決められたら誰も取れないって話だぜ。」
部員のざわめきが波のように広がる。
小柄でそれほどパワーのない弱点を補って余りあるそのテクニック。
技術戦ともなれば、あの人は間違いなくこのテニス部のトップだ。リョーマはそう確信する。
“あの時よりも、強くなってる・・・”
手塚相手だからだろうか、記憶の中にあるプレイよりも更に鋭さと磨きがかかったそれにリョーマは2年という月日を改めて思い直す。